プラハ - 人は行き交い、建物は残る

megumimaginery2006-01-15

プラハには1000年前のロマネスクから東西統一後のポストモダン建築まで見られる。第二次世界大戦の戦災を免れたからだが、これまでに全く破壊されたことが無い訳ではない。むしろ度重なる火災や再開発によって街は重層的に発達して来たと言ってよい。


多くの建物は異なる時代様式が継ぎはぎされていて、どこまでがその建物の続きなのかわからないようなものも多い。旧市街地のユダヤ人地区はアールヌーヴォーの美しい街並みになっているが、これはこの街の不潔さに業をにやして再開発が行なわれたのがアールヌーヴォーの時代だったからだ。この時期、チェコは工業国として大いに発達した。よって街中にアールヌーヴォー様式が見られるのだ。


この街は長い歴史のうちに支配者が替り、栄枯盛衰に人々は翻弄され続けて来た。中世にはドイツ人が入植し、ハプスブルク家の長い支配が続いたが、第二次世界大戦後、ドイツ系住民の殆どはこの国を離れた。1924年に早世したドイツ系ユダヤフランツ・カフカも、永らえていればナチスの迫害或いはソ連共産主義によって早晩この国を後にしなければならなかっただろうと推測する。


旧市街広場のど真中に、多くの弟子や母子像を従えたヤン・フスの像、プラハ市民の誇りだが、ロダンの影響が見られるこの像は、チェコスロバキア共和国が出来た1920年代のものである。1410年代の宗教改革の先駆者であったフスとその一派は、200年後、上記のハプスブルク家に「白山の戦い」で敗北し、徹底的に廃除されてしまう。そしてプロテスタント排除のためにこの街にはイエズス会が派遺され、隆盛する。カレル橋にある日本人に人気のフランシスコ・ザビエルの像も、プロテスタント排斥のために派遺された一派のものである訳だから、旧市街広場のフスの像からみれば敵である。イエズス会とは、宗教改革に恐れをなしたカトリック側が巻き返しの為に新設した修道会で、海外伝道やプロテスタント反対、カトリック回復運動を積極的に行なった団体である。その結果、現在、プラハの宗教的分布ではフス派はわずか2%程度である。


戻って来る者も居る。ミュシャドヴォルザークアメリカで成功するも、故郷に錦を飾り、この地の有名人墓地に眠っている。宿で出合った、カフカ墓所について教えてくれたユダヤ人の青年は、イスラエルから里帰りしているらしかった。私と同年輩に見えるこの青年は、共産主義の時代にプラハ幼年時代を過ごし、革命前後のどこかのタイミングでイスラエルに移住したのだと思う。バックパッカーの安宿に不釣り合いな黒い地味なスーツをいつも着込んでいた敬虔なユダヤ教徒らしい容貌の彼には、2006年の正月には、気軽に里帰り出来る自由があるのだ。


為政者により、時代によりプラハには多くの者がやって来て、或いは去って行った。しかし建物は残る。プロテスタントの教会にカトリック修道会を駐在させる。不潔なユダヤ人街を取り壊すも墓地とシナゴーグは残す。ロマネスク時代のロトゥンダは、教区教会の毎週の礼拝に利用されている。こうして継ぎ接ぎされ、改修されたりした建物は、プラハを益々迷宮めいたものにし、過去にも、そして未来にも存在し、我々を惑わし続けることだろう。