親切は人をだめにするか

megumimaginery2006-11-09

地下鉄の駅には時々こんなポスターが貼ってある。物乞いにお金をあげても薬を買うお金に消えるので、彼らの更正を考えて、彼らにはあげないで、もしお金があるならロンドンチャリティに寄付してください、というものだ。


これは本当だと思う。薬物に依存していたら、自分にもらったお金をコントロールすることは難しいだろう。また、物乞いをすればお金がもらえると期待するようになったら、そのうち、恐喝、強盗に発展していく恐れもあるからだ。


チャリティではなく、公正な取引を、というのがフェアトレードのスローガンだが、チャリティっていったい何だろうと思ったりする。「フェアトレードファッション」というのが私の修士課程のお題なのだが、それの真に意味するところは、まだ、私の中では明らかにはなっていない。


日本やタイの仏教では、托鉢をする僧に食料やお金をあげることを、正式には「喜捨」する、という。私たちは多分、施しとか、お布施とかって思い込んでいるが、そうではない、喜んで手放させていただく、徳を積ませていただくというスタンスだ。また、各国の文化には、乞食を崇める、あるいは乞食が神の化身であったという話が残っているところがある。イギリスでもテートブリテンにあるエドワード・バーン=ジョーンズの「King Cophetua and the Beggar(コフュテュア王と乞食娘)」という絵にその例が見られる。女嫌いのアフリカの王コフュテアがふとしたことから乞食の娘に恋をする、というものである。どこかの国の説話なのだろうが、ちょっと今はわからない。かつて、「乞食」というものが職業として成り立っていたことの証だろう。あるいは、「働かないことが悪になった」のは、もしかしてキリスト教プロテスタンティズムとか、産業革命以降のことなのかもしれないと思ったりする。


働かないものに施しをする、というちょっと逆説的な行為は、効率最優先の私たちの産業活動に適切なブレーキをかけるのではないか。私たちはともすると自分たちが一番えらいと思い込んでいる。理屈で割り切れないものは排除する。それで良いのだろうか。


何が理屈で割り切れるか、何がもっとも効率的か、あるいはどの効率を最優先させるべきか、っていう命題は文化によって微妙に異なる。ジャンキーにお金をあげるべきじゃないと思うし、チャリティではなくフェアトレードっていうのにも私は賛成だ。でもそれは西欧主導型資本主義の瑕疵を修正するときだけに正しいのであって、いつでも、どこでも正しいかどうかは、もしかしてわからないんじゃないか。